シネマ・コンサート開催記念
特別インタビュー

春田 和秀×インタビュアー
樋口 尚文

“伝説の名子役・春田和秀(少年・本浦秀夫役)
はじめて語る『砂の器』の現場” 前編

ピアノと管弦楽のための《宿命》が演奏されるなか、遍路の父子が日本の四季を壮絶に旅する『砂の器』のクライマックス。そこでひとこともセリフが無いにもかかわらず、観客を感動の渦に巻き込んだのが少年・本浦秀夫に扮した子役の春田和秀さん。そもそもテレビや映画で売れっ子の子役だった春田さんだが、7歳から8歳にかけて撮影された『砂の器』はもちろん圧倒的な代表作。
若き日に俳優業から離れた春田さんは、ずっとこの映画の記憶を大切に大切に封印してきた。そして今回、公開から43年ぶりに初めて、熱烈なファンの皆様のために『砂の器』の思い出を語る!春田さんへの初ロングインタビューをはじめ、当時の子役たちに徹底取材した『「昭和」の子役 もうひとつの日本映画史』(国書刊行会/8月刊)の著者・樋口尚文の問いに春田さんが答える圧巻のスペシャル・インタビュー!(全2回)

撮影隊と共に日本全国を回った約10ヶ月間の旅

樋口尚文:春田さんが『砂の器』という映画に関わる前、もともと子役として大変売れっ子でいらっしゃったのですけど、その時は大体どんな番組とかに出てらしたんですか?

春田和秀:そうですね、NHKの「赤ひげ」「あめりか物語」、あとは「おかあさんといっしょ」とかもありましたね。他にも色々とありますけどもTBSの「わが子は他人」「こおろぎ橋」などのドラマ、「はだしのゲン」「ガラスのうさぎ」といった映画やラジオドラマ、コマーシャルもやらせていただきましたね。

- その当時は毎日、どんなお忙しさだったんですか?

学校にはほとんど行けてなかったですね(笑)。小学校でも1年の間に5~6日程度、それが5~6年生くらいまで続きましたかね。

- 子役を始められたのは何歳くらいからなんですか?

気が付いたときには劇団に入っていたような感じです。なんとなく3歳くらいから記憶はありますが、東京の劇団に入りました。地方から通うような形だったんですが、その頃から既にお仕事させていただいてました。

- 『砂の器』のお話が来た時、おいくつでしたっけ?

たぶん7~8歳くらい。小学校1~2年の時だったと思います。

- 出演が決定したとき、何処かに行くたびに「あれ(砂の器)に出るんだって!?」みたいな反響があったそうですね。

ありましたね。例えば、他のテレビ局に行ったときでも、打ち合わせをしてるときに「次、あれ出るんだって?みたいなことを言われた記憶もあります。自分でも“超大作だ”という話は聞いていたんですが、実際に日本全国のロケ地を回る日数を考えると、まるまる1年近く、約10ヶ月も時間を費やしていて。

- では、春田さんも10ヶ月くらい撮影隊と一緒に旅しておられたってことですか?

大人の中に子どもがいるような形で旅に出て。ただ、移動はバスであり電車であり飛行機であり、ってことで。色々と班があるんですが、逆に皆さんに気を遣っていただいていたということが、今になって分かるというか。その当時はやっぱり子どもですから、逆に背伸びして大人ぶってみたりとか。本当に皆さん気を遣っていただいて、まだ小学校2~3年くらいの子どもを笑わせてくれて、いつも隣にいてくれて。そういう時間がいっぱいありましたね。

子どもながらに“現場の熱量”を肌で感じ取っていた

- 映画のスタッフってものすごく慌ただしいじゃないですか。その中でも気を遣われたということですが、“春田少年付き”の方がひとりおられたとか?

そうですね、専属ではないんですが、でもほぼ専属という形で。例えばシーンの入りのときは準備もしていただけますし、セリフはないんですけど、表情の作り方の練習をしてくれたりとか、ですね。あとは、撮影の合間に勉強しなきゃいけないんで、さすがに勉強は苦手だったと思うんですけども(笑)、時間が空いたときに観光名所に連れていってくれたんですよ。

- なるほど! 修学旅行みたいなものですね。

色んな所を転々とロケしながらも、その地域の良い物を一生懸命教えていただいてたんじゃないかなと。僕は、撮影風景を見に来たお母さんたちが連れている子どもたちと一緒に写真を撮ったりすることもあったので、そういうときも常に隣にいてくれて。一緒になって考えてくれるというか、僕も子どもだったのでわがままを言ったりとか、眠たい時間もありましたけども、横で元気づけるようなことを言ってくれたりとか。

- へえ~! その人は今にして思うと、助監督みたいな人だったんですかね?

なんでしょうけど、僕からすると何でも聞き入れてくれた。撮影の中での配慮で言うと、たとえば最初に“砂の器”が浜辺で作られるシーン。あれはけっこう時間かかったんですよ、正直に言うと2~3日。そういう時に励ましてくれるんです。

- あのシーンは朝にも夕方にも見えますよね。

記憶が正しければ朝だと思います。そのとき、眠くてもシーンに入る瞬間には切り替えなきゃいけないんですが、それが自分でも自然に身についていったんですけど、それまではさっきの助監督さんが眠い時にも支えてくれた。そういう記憶がなんとなくあります。

- でも、砂を運んできて木のところで作るだけじゃないですか。あれを2~3日やったんですか?

要は“日が昇る雰囲気”っていう時間帯もありますし。あのシーン、スタッフの大人たちが騒いでたのは子どもながらに感じたんですけど。「あれがダメ、これがダメ」「ああしよう、こうしよう」っていう意見が現場でいっぱいあっての、あの良いシーンなんでしょうね。今だからわかることですけどとにかく、監督なり助監督さんなり、プロデューサーさんたちの中で、色んなところで意見が飛び交っていたっていう記憶が、少しずつ戻ってきてます。だから(現場が)熱かったというか、そういう感じはしますね。

- ああ、大人のスタッフたちの熱気が子どもにも伝わってくると。

僕、ここで起きてなきゃマズいよな……っていうようなこともあったり(笑)。それでも「はい終わったよ」っていうときの“ご褒美の笑顔”が皆さんからいただけるので、これでこのシーンは終わりだなって、子どもながらに感じてたというか。

- でも、あれも何気ないシーンですよね。

そういう記憶がちょっと残っていたものが、どんどん出てきますね。

一生懸命“封印”しようとしていた記憶がどんどん蘇ってくる

- そういうところを始めとして、野村芳太郎監督は細々したことはおっしゃらないと聞きましたけど、どんな感じでしたか?

さっさと撮影を済ますテイクももちろんあったと思うんですけど、肝心な時には人が集まって話してるのをよく見てたので。その中での意見交換は、僕らには聞こえてこないんですが、その熱い伝達を受けてイメージを感じ取って。ただし(自分の役には)セリフの表現が全然ないんです、言葉で発するものがないですから、感情で出していく部分を何回も何回も。「もう1回!」ってくり返し撮ったところは、結構あった気がしますね。だからすごく良いシーンが撮れるんでしょうね、きっと。

- 監督によっては子役さんに身振り手ぶりで教えるって話もありますが。

何度かはあった気がします。一緒になって横に並んで「こうしたほうがいいよ」みたいな感じのことはありましたね、もちろん。

- なかなか思い出しにくいかもしれないですが、特にそういうやり取りを覚えてらっしゃるシーンはありますか?

駐在さんに崖から落とされるシーン、あれは相当な回数落ちたんですよ。下にマットがあって、スタッフさんが抱えてくれて。で、僕ここ(額)に傷があるんですが、これが証拠になるシーンなんです。この傷っていうのは、もともとある傷なんですけど、それを巧く重ねるような回し方というか、転がり方というか。

- もともとあった傷なんですか!? 全くのフィクションかと思ってました。それは実に興味深いですね。

映画の中では、突き落とされたときにできた傷っていう設定になってるんです。

- それは今、初めて聞きましたね(笑)!

すみません、だんだん色んなことを思い出してきて。

- そうだったんですね、びっくりです!

その落とすシーンでも、転がり方、落とされ方、後ろから棒を持って向かっていくとか、跳ね上げられ方とか。結局あそこでも何回か違う間合いで撮っているので、何回か落とされましたね。

- あそこで落とされたっていうのは、観ていてすごく痛切なものがあるというか、大人の警官の浜村純さんが「やーっ!」って突き飛ばして、石ころみたいに転がり落ちていくじゃないですか。あれを何回もやったんですね……。結構、下まで落ちたんですか?

いや、2メートルくらいですね。でも、子どもながらに落ち方で向きがどう変わるとか、悔しがって這いつくばる自分の顔を考えて、ああこうやって繋がるんだなって。

- あそこはなかなか良いシーンというか、僕も何度も涙腺が崩壊してしまったシーンです(笑)

ですよね(笑)。まあ、そういう記憶がよみがえってくるというか。多分、自分では一生懸命“封印”しようとしていたんですけど、こうやって話をしていくうちに、どんどん浮かんできちゃう。

- あらためて確認なんですが、つまりこの春田さんの傷は、野村監督が現場で接しておられるときに「これを活かそう」ってことになったんですか?

なんでしょうかね? 僕の中では全然意識してなかったんですが、後で言われて気づいたんです。

- それ、おいくつくらいの頃の傷だったんですか?

僕も覚えてないくらいの頃ですね。

- でも野村監督って、割と現場の色んなことを取り込んでいくというか、ちょっとドキュメンタリータッチも得意な方なので、そういうことかもしれないですよね、もしかしたら。

とにかくカットがかかった後に野村監督の周りに人が集まって意見交換する様子が熱くて何か違うと何回も何回もやるっていうのは、もう当然のことで。自分も言われるがままに僕も応えなきゃと頑張ってましたが、これがこういうシーンになるんだっていうのは、その頃には分からなかった。

- そりゃそうですよね(笑)

10ヶ月の間に、てんでばらばらな順番で撮影していきますから。後でこうやって見ていくとスゴいっていう感じですね、やっぱり。

極寒ロケでは加藤嘉さんに抱擁されてカイロ代わりに(笑)

- 秀夫を落としてケガをさせた、崖の上にいる浜村純さんは気まずい表情になるわけですけど、それを睨む(秀夫の)“目ヂカラ”がものすごくて。あれはそういう指示か何かがあったんですか?

表情的にはあれが一番いい形で出てると思うんですが、やっぱり何回も撮ってましたね。僕もそんなに演技が巧くなかったんで、本当にご迷惑をおかけしてたんじゃないかなって……。

- あの、上をキッと見る秀夫の目はスゴいと思いますよ。あそこも涙腺崩壊ポイントですね、なんかそんなのばっかりですけど(笑)。と言いながら実は、春田さん演じる本浦秀夫が出てくるのは後半の40分くらいだけなんです。しかも、あらゆる共演者の中で、ほぼ加藤嘉さんと緒形拳さんしかご一緒されてないですよね? あの旅の順番でいくと、いくつかポイントがあって。まず最初のほうの竜飛崎、ものすごく寒そうですけど思い出的には?

子どもながらに「死ぬほど寒い」っていう(笑)。そう感じた中で、加藤嘉さんがずっと抱きしめてくれてたんですね。まあ、携帯カイロみたいな感じだと思うんですけど。

- 春田さんで暖を取ってたと(笑)

そういう部分も結構あったみたいで(笑)。竜飛崎のシーンが終わった後、お粥を食べるシーンがあるんですが、あの辺も“つらら”がいっぱいある、トンネルの脇あたりくらいの、ちょっと広いところで撮影した覚えが……あ、そこは(本編には)使われてないかもしれないです、もしかしたら。

- 他にも、撮ったけど残っていないシーンとかって覚えていますか?

亀嵩でSLが走るシーンで鉄橋を走り抜くんですが、あの時も何回も走りましたね。列車がどんどん走ってくる記憶があって、無線が使われてなかったのかな? メガホンかなんかで、遠いところから何人もスタッフさんがキューを出すっていう。

- しかも、あの田舎で(笑)。私は亀嵩にも行きましたけど、当時は凄いひなびたところでしょうね。

先がカーブで見えなくて、列車が来るとキューを出すのにスタッフさんが何人も手を振って……とかっていうことはあったような気が。

- しかも、当時はC12(国鉄の蒸気機関車) なんて走ってないわけで……あれはわざわざ用意したんですよね?

あの当時は気動車が走ってましたね、ディーゼルカーです。SLは調達したんでしょうね、きっと。僕もSLなんて見ることがなかったので、ずっと眺めてたような記憶があります。

- しかも設定上の亀嵩駅(撮影は出雲三成駅)にC12をチャーターしたのに、映画で使われているのは走りの正面だけなんですよね。

そうです。例えば加藤嘉さんが緒形拳さんと駅で汽車を待っているシーンでは、(秀夫は)出てないんですよ、ずっと待機。だから僕はずっとSLを眺めて、写真を撮ってもらったり、蒸気機関車ってすごいなーって思いながら(笑)

- 贅沢ですよね! 機関車を持ってきたのに人物と絡めないで、走ってるワンカットしか使わないって(笑)

そのシーンを撮ってるとき、僕は観てないんですよね。監督もしくはスタッフさんがバッと行って、そのシーンを一瞬撮ってましたね。汽笛を鳴らして……。僕らは待機でしたね。

春田 和秀(はるた・かずひで)※写真左
1966年生まれ。ものごころついた時から子役として活躍、『わが子は他人』『白い地平線』『がんばれ!レッドビッキーズ』『こおろぎ橋』などのテレビドラマ、『はだしのゲン 涙の爆発』『ガラスのうさぎ』などの映画に多数出演。『砂の器』の本浦秀夫役は大きな好評をもって迎えられた。若くして子役を引退し、現在は自動車関係の会社を経営。今回、43年ぶりに初めてファンのために『砂の器』を語る。
樋口 尚文(ひぐち・なおふみ)※写真右
1962年生まれ。映画評論家、映画監督。著書に、詳細な『砂の器』論を含む『「砂の器」と「日本沈没」 70年代日本の超大作映画』をはじめ、『大島渚のすべて』『黒澤明の映画術』『実相寺昭雄 才気の伽藍』ほか多数。春田和秀さんのロングインタビューを含む『「昭和」の子役 もうひとつの日本映画史』(国書刊行会)が8月刊行。